御巣鷹山慰霊登山 of FUTURE WALKER


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御巣鷹山慰霊登山

2009.10.18

IMG_1604.JPG登山口から少し入った所映画『沈まぬ太陽』の公開記念ということもあり、映画組合で企画された御巣鷹山慰霊登山に参加してきました。御巣鷹山の尾根は、24年前の1985年8月12日に起こった日航123便墜落事故の現場です。520名が死亡し、4名が救出された航空史上最悪の事故現場です。私たちの世代(30代半ば)はギリギリこの事故の記憶が生々しく残っていますが、『沈まぬ太陽』(山崎豊子著)や『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫著)など、この事故を描いた様々な書籍が出ているので、それによってもいろいろな角度からこの事故を知ることができます。私も、『沈まぬ太陽』を読んで相当のショックを受けたので、いつか御巣鷹山には登りたいと思っていました。
IMG_1607.JPGスゲノ沢 幸い自宅近くの東久留米駅から車が出るということで、妹と私をピックアップしてもらい、そのまま所沢I.Cから高速に乗って関越道、上信越道と走り、下仁田I.Cから上野村に向かいました。林道をずっと走っていくとスゲノ沢の「御巣鷹の尾根登山口」に到着。かなり山深い場所で、すでに紅葉が始まっており、景色は趣深い様相でした。車から降りて登山靴の紐を締め直し、でかいリュックを背負って登山口に向かったら、登山口の横に子供たちが作ったと思われる登山用の杖がたくさん置いてありました。ご遺族の方々の慰霊登山のために地元の子供たちが手作りで作ったようです。一つ一つに優しいメッセージが刻んでありました。IMG_1608.jpg意外と急な斜面その杖を握りしめて登り始めると、意外と急な斜面で結構きつい。今でこそ整備された登山道になっていますが、当時は登山に慣れた人でも到達するのが困難だった山深い現場。ご遺族が到達するには大変な苦労があったと思います。整備されても失われていない急斜面が未だそれを物語っているようです。
 少し登っていくと、休憩所やトイレがあり、そこで小休憩。この日は快晴で天気が良かったですが、命日に登山するご遺族の方々は、いつも天気が良いとは限りませんので、悪天候の時はこの休憩所で待機するのでしょう。IMG_1609.JPG無数の墓標が建つスゲノ沢そこからさらに登っていくと、機体後部が滑り落ちたスゲノ沢がしっかりと見えてきて、無数の墓標が目に入ってきます。その驚くほどの数に、足が止まってしまいます。急斜面に散在する数百の墓標。墓標一つ一つから、一つの命とその遺族たちの無念が伝わってくるようで、言葉を発する気にもなれず黙々と登ります。単に名前が書いてある墓標ではなく、それぞれの思いが様々に刻まれているので、時々立ち止まってその墓標の前で立ち尽くしざるを得ません。山全体が霊IMG_1610.JPG御巣鷹の尾根園のように碁盤の目で数字とアルファベットが「7E」とか「2B」とかふってあり、ご遺族が墓標を探しやすいようになっています。これは、事故当時からのものであるらしく、どこから発見された遺体や遺品であったのかを分かりやすくするためにそうしたのだそうです。その広範囲に驚きます。
 何とか急斜面を登り切ると、頂上のような広場に出ました。そこには、「昇魂の碑」や「安全の鐘」が建立されていました。この場所にまさに墜落したのです。その凄まじさはとても想像しきることはできません。IMG_1611.JPG昇魂の碑航空安全会議の方々と登ったことのある組合の方が、「あそこの尾根に右主翼がぶつかり、日航機は右に反転して真っ逆さまになって時速500マイルの猛スピードでこの尾根に激突した」と言っていました。右主翼がぶつかった尾根には、いまでもU字溝と呼ばれる凹みがあり、事故の凄まじさを物語っています。しかし、右主翼がぶつかって逆さまに激突したことにより、後部胴体は折れてそのままスゲノ沢を滑り落ちていったので、墜落当初は20数名が生存し、即座に救出すれば何十人も救助されていたはずとされています。しかし、政治的理由が邪魔をしてIMG_1612.JPG中央付近がU字溝、救助は次の日になり、暗闇の中で多くの方々が息絶えたのです。
 事故調査委員会は、「昭和53年の大阪国際空港におけるしりもち事故の修理ミスにより、後部圧力隔壁が金属疲労を起こして亀裂が入り、客室内の気圧に押されて、隔壁が吹っ飛び、中から垂直尾翼を吹き飛ばした」と事故原因を断定したのですが、その原因では数々の現象が説明がつかないそうで、航空安全連絡推進会議の皆さんなど専門家は、「フラッター現象による垂直尾翼の破壊」がほぼ間違いのない推論であると一致するそうです。フラッター現象とは、空気抵抗などによる異常振動のことで、激しい空気抵抗の中を飛ぶ飛行機は、翼などがしっかりと固定されていないと異常振動が起き、大変な事態になります。事故当時、その事も指摘されたので全日航機を調べたら、ほとんどの機で垂直尾翼を留めるボルトがゆるIMG_1615.jpg墜落時に焼けた木んでいたり、または完全に外れていたそうです。しかしボーイング社と日本航空は、事故機だけの問題にとどめておきたく、事故調に「123便の修理ミス」として結論づけさせたと考えられています。今後の航空機の安全のためにも、犠牲者の方々の命を無駄にしないためにも、間違った結論を撤回し、きちんと科学的に裏付けされた結論を出すべきだと思います。また、なぜ救助が遅れたのか。なぜ墜落から16時間も救助が遅れたのか。米軍や自衛隊は即座に墜落地点が分かっていたと言われています。なのに墜落地点の情報が錯綜し、救助が大幅に遅れ、何十名もの命を救うことができなかった。なぜなのか。必ずそれをはっきりさせなくてはならないと思います。小説『沈まぬ太陽』には、かなり裏側の詳細が書かれていますが、人名を無視した日本全体のシステムのおぞましさに驚愕させられます。
IMG_1617.JPG無数の墓標 昇魂の碑の前の広場にて、皆で黙祷をした後、昼食を食べ、頂上と思われる方向に登っていきました。そこかしこに墓標がたくさんありました。墓標の名前の下に、年齢が一つ一つ書いてあります。夏休みの便であったため、0歳からの子供を含む、多くの家族の名前が書いてあります。楽しい家族旅行のはずだったに違いありません。また、出張中の父親も多かったようで、「いつも優しかったパパ」とか「パパ、もう一度抱っこして」など様々なメッセージが刻まれています。自分と同じ家族構成で年齢も同じ家族の墓標もいくつもありました。ひとつひとつ通り過ぎることができず、一つ一つ立ち止まってしまいます。こみあげる涙を抑えることができない状態でした。IMG_1618.JPGスゲノ沢付近の墓標たちそして、頂上付近とスゲノ沢付近にひとつずつ小さな小屋があり、その中には無数の思い出の写真が貼られていました。日本航空の人命無視の利益優先経営体質と、それを保護する日本政府への怒りを体の隅々まで感じます。
 時々、土の中から網のようなものが見え隠れしているのですが、その網は、すべての遺品や部分遺体を回収することができなかったので、事故現場全体に網をかけ、土をかけて埋めたそうです。ですので、今でも事故機体の破片や遺品、遺骨が出てくるそうです。とにかく、山の斜面に数え切れないほどの卒塔婆や慰霊碑、祭壇、慰霊写真があり、言葉では言い表せない状況がありました。
IMG_1619.JPG慰霊の園 山から下りた後は、上野村が建立した「慰霊の園」に向かいました。ここには大変立派な慰霊碑が建てられており、すべての犠牲者の名前が碑には刻まれていましたが、その名前の数にも圧倒されます。これだけの人々が、あの事故で犠牲になったのです。そして、日本人だけじゃなく外国人も多くいたことに気づかされました。慰霊の園には、小さな資料館もあり、そこには123便に乗っていた人たちの写真付きのアルバムも置いてありました。人命無視の経営を推し進めたすべての人物らに、このアルバムを1ページ1ページめくってじっくり見ていただきたい。そIMG_1621.JPG全犠牲者の名前を刻んだ石碑して、今も変わらぬ体質の日航幹部にも、1枚1枚の写真を見ていただきたい。
 今も日本航空は儲け優先で、軽い機体の800人乗りジャンボを就航させるようで、その強度は実地では確かめられておらず、事故も起こっており、ハイテク化も整備士削減のためだといIMG_1620.jpg慰霊碑います。事故の直後は、機付き整備士制度に戻したようですが、今はまた逆戻りし、流れ作業で整備を行っているそうです。やはりすべてを明らかにしない限り、反省はしないようです。この事故を日本人が絶対に風化させず、いつか必ずすべてを明らかにさせること。そのことが、絶対に必要であると感じました。
 今回は、組合の企画で大勢で動いたため、あまりゆっくりとマイペースで回ることができなかったため、近いうちに必ずもう一度自分らで行こうと心に決めました。

written by 中村未来歩

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